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渡辺 武

■野田城の起源
 野田・福島に城の原形ともいうべき砦が最初に築かれたと思われる時期は、戦国時代、享禄4年(1531)から同5年すなわち天文元年(1532)にかけて、堺・天王寺・木津・今宮等で細川晴元と三好元長とが対立抗争し、ついに元長が敗れて堺で自殺するにいたった戦のときであろうと推測される。
 このとき享禄4年3月には三好方の浦上掃部の軍が野田・福島に陣取り6月までここを陣地としているので(『細川両家記(りょうげき)』)、おそらく陣地を支えるための防護策などを施したものとみなければならない。これを敢えて砦と呼ぶならば野田・福島の砦である。江戸時代中期、享保年中に著わされた『摂津志』に、享禄年中はじめて三好氏が福島堡(ふくしまのしろ)を築いたと記すのも、同じ推論ではなかろうか。野田の歴史上有名な天文2年(1533)8月9日の廿一人討死の1、2年前に、すでにそういう事実があったわけである。
 つぎに、幕末の『摂津名所図会大成』という本に「野田城址(のだしろあと)=野田村にあり。字(あざ)を城(しろ)の内といふ。はじめ細川氏綱在城す。云々」と記している。氏綱は天文年間晴元と同族の抗争をくりかえした武将で、永禄3年(1563)に死去している。城址といい、在城というからには、当時、かなりの城郭が築かれていたというふうにうけとれるが、果たしてどうなのか。
 ともあれ、確かにいえることは以下に見るように、少なくとも元亀元年(1570)7月以前に、すでに野田・福島に相当な城塞が築かれていたということである。


■野田城の最盛期
 元亀元年7月畿内での勢力奪回をねらう三好三人衆らが信長への反逆の軍勢1万3,000をかき集めて泉州に上陸、27日、天満が森へ陣取り、阿波出発前の計画通り、早速野田・福島の砦の補強工事を行い、そこへ盾篭った。『細川両家記』は次のように記している。
「阿州にては相定む如く、野田・福島に猶以て堀をほり、壁を付け、櫓を上げさせ、河浅き所に乱杭(らんぐい)・逆茂木(さかもぎ)引き、当所へ盾篭らるるなり。」と。
 「猶以て」とあるからには、それ以前にすでに堀も壁も櫓もこの地に作られていたのであろう。
 この情報に接した信長は、数万の大軍を率いて8月20日岐阜を発ち、25日枚方の招提寺(のちの敬応寺)に着陣。翌日、敵の立篭る野田・福島の砦を大軍で包囲させるとともに、自らは天王寺に本陣を構え、三好衆と結びついている石山本願寺にたいする戦闘態勢を強めた。『信長公記』によれば、野田・福島にたてこもる軍勢は、細川六郎昭元・三好日向守長逸・三好山城守康長(笑巌)・三好為三政勝等々12人の大将はじめ8,000人ばかりだと伝えている。
 これだけの将兵が篭城しうるためには、相当大規模な城造りの構造が必要であったに違いない。さきに引用した『細川両家記』の文面からみても、周囲に堀をほり、城壁─おそらく土塁を主とした城壁を築き、塀を建てめぐらし、要所に矢倉を建て、しかも天然の要害とたのむ周辺の川筋には、浅い所へは乱杭や逆茂木を打って敵の侵入を防ぐなど、立派な要塞の体をなしていたものと思われる。文中の櫓は、見張り塔としての井楼(せいろう)の意ではなく、文字通りに矢倉(やぐら)の意と考えていいと思う。

 石山本願寺では、この野田・福島が落去すれば本願寺の滅亡につながると危機感をおぼえ、9月6日、諸国の門徒にたいし、信長打倒のため武装蜂起せよと顕如法主の名で檄(げき)をとばし、ついに12日、信長軍への攻撃に突入した。こうして激しい戦闘が開始され、以後10年間に及ぶ石山合戦の幕が切って落とされた。緒戦においては本願寺・三好衆側が優位に立ち、天王寺から天満へ、さらに海老江へと本陣を移していた信長軍は敗戦し、9月23日、野田・福島から撤退する羽目に陥ったのであった。
 しかしその後、天正4年(1576)4月以後、本願寺は信長軍に包囲されて5年間にわたる篭城を余儀なくされるにいたり、もちろん野田・福島も信長の手に落ちた。天正6年11月の毛利水軍との木津浦合戦などにさいしては、この地は信長方の重要陣地になったはずである。


■野田城亡ぶ
 不思議なことに、それ以後40数年間、慶長19年(1614)の冬の陣にいたるまで、野田城あるいは野田砦についてのたしかな史料が見られない。秀吉時代の野田の船庫設置や野田藤見物の賑いの話などが伝わるのみである。『西成郡史』も"慶長19年、大坂冬の陣に大野道犬が棚楼を福島の5分の1に設け、800人を以て野田の新家を守らしむ。同年11月16日、東軍の船将九鬼守隆・向井忠勝の両名、大小の艦船を率い、伝法港に入り、陸上池田氏の軍と協力して新家を攻撃し、ついに23日陥り、ついで福島も又潰えた。その兵火で野田の藤も災火にあった"という意味の記事を載せるのみである。右の文中「棚楼」というのは「井楼(見張り櫓)」の意味かと思われる。


■中世の城砦としての野田城
 以上を一言で要約すれば、野田城というのは、戦国時代後期、野田の地に実在し、いくつかの合戦に登場するものの、その実態は不明である。そして、おそくとも夏の陣以前に、その姿を完全に消し去り、今日その名残りを残すものはほとんど何もない。─ということになろうかと思う。
 城といえば私たちは近世の大城郭を思い浮かべるが、中世以前の城は決してそんな基準ではかることはできない。戦闘にさいして仮設する簡単な砦も一種の城であって、その本質は敵の武力攻撃に対する防御施設といって差支えない。ましてや野田城のように、堀や城壁を有し、櫓を構え、数千人もの兵士が長期間篭城できるだけの防御施設というのは、紛れもない城郭であろう。秀吉の天下統一以前のわが国の大半の城は野田城以下の規模と役割を持つものに過ぎなかったのではなかろうか。それが中世城郭である。


■野田城址
 これまで見てきたとおり、古い記録では、ほとんど野田・福島と併記されている。両地は切り離すことのできない、あるいはその必要のない一体のものとしてとらえられていた感がある。しかしそれでは余りにも範囲が広すぎて、到底、城とか砦とかいう概念に合致しない。やはり両地にそれぞれ中心となる土地、いわば城地があって、その周辺は農地や荒地であったと考えた方が実情に合っていると思われる。
 さいわい野田城については、明治初期以前の古い町名、地名を一つの手がかりに、また、現在に多少とも名残りをとどめる昔の地形をも手がかりにして、その位置や規模を探ることがある程度可能だと思われる。(福島城の方は残念ながら絶望的であるが……。)
 江戸時代後期の野田村は奥ノ町・東ノ町・城ノ内町・弓場(ゆば)町(又は弓ノ町)・堤町・北ノ町の6町から成っていた(福島区円満寺文書による)。農村なのに町名がついているのが注目される。明治20年頃の地図には、それが字(あざ)奥・字村東・字城ノ内・字弓場・字堤・字大北となっている。大坂でははじめての実測図で、5000分の1の精度の高いものであるが、この地図を見ると昔の野田の地形が非常にはっきりわかる。右の字名(あざめい)の区域だけが住宅地で1カ所に集中し、周囲は水路(井路(いじ))で取り囲まれ、この区域のまわりはほとんど田畑である。現在の地図と重ね合わせた見取図を作ってみたので参照されたい。
 
 
 字村東(昔の東ノ町)の一部と字堤(昔の堤町)をのぞけば、この区域は現在でも野田・玉川一帯のうちで一番地盤の高い所である。しかも昔から続いてきた地名(町名・字名)は一見してそれとわかるように城と縁の深いものばかりである。
 おそらく、城ノ内町と奥ノ町とが、かつての野田城の中心部、せまい意味での城内にあたる部分なのであろう。弓場町は文字通り弓の訓練場の名残りで、東ノ町は城の東に隣接した町なのであろう。野田戎や円満寺、極楽寺などのある区域にあたる。また、堤町の西南には馬洗池があった。これも城と関係の深い名称である。井路は今日では埋められて道路にかわっているが、かつての堀の名残りと見てよいかもしれない。
 したがって、野田城址はまさにこのあたりだと推定してよいと思う。地下鉄玉川駅付近が中心部に当たるのであろう。


参考文献
大阪春秋社 「大阪春秋」第80号 より
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